Diary&Column/おさる式茶藝館

2003年03月30日

「400年後のかぶき者」...京都南座観劇の記

「八百屋お七」を菊之助が演じる夢を見たのは今年の初めだった。
実際八百屋お七の歌舞伎は見たことがなく、話を本で読んだだけだったので
多分自分の中でテキトーにこさえたお七だったんだろうけど、
恋しい人会いたさに半鐘を鳴らす夢の中の菊之助は大層美しかった。
その後少ししてカブキチの友人から、3月に京都の南座に菊之助が出ること、
そしてなんと八百屋お七をやることを聞いて心底驚いた。
菊之助が呼んでいる…そう思い込んだ私は南座に行くことを素早く決意し、
即座に連れ合いに借金を申し込み、先日つつがなく京都を訪れたのでした。

関ヶ原合戦の後、京都の四条河原にて出雲の阿国が始めた
「かぶき踊り」が歌舞伎の発祥であるという。
出雲の阿国から数えて今年で歌舞伎は400年、その記念すべき年に
誕生の地・京都にある南座で歌舞伎を観るという事にまず感無量な私である。
歌舞伎座に比べると南座は案外狭い。狭いがその分、舞台には近いかも。
客席には舞妓はん(多分)のお姿もちらほら、
贔屓筋から贈られるお花?みたいなのにもお茶屋さんの名前があり、
その辺りが実に京都っぽく雰囲気を盛り上げますわいなあ。
お約束の菊之助巾着や舞台写真等をせっせと購入してから観劇、
東京ではありえない程の菊之助出突っ張りアワーは美しく過ぎていくのだった。

夜の部のfeaturing新之助「源氏物語」(これまた厭味な程美しい新之助の、
業腹だが最終的に何もかも許せてしまう女たらしぶりにオール女子失神寸前)
を見終わってから、当然のように出待ち。
ここで普通に楽屋口へ私を誘う友人カッパに改めて感心する。
歌舞伎座より千近くも少ない座席数にも係わらず上等な席を確保し、
横浜から南座昼の部に間に合うよう分刻みのスケジュールを完璧に組み、
その間お茶(勿論伊藤園)やお弁当の手配もぬかりなく盛り込み、
観劇のポイントを事前に教授し、黒子や義太夫さんに至るまで説明してくれる。
とにかく素晴らしい段取りだ。
…君は一体何?って思ったりもするがまずは惚れ直したぞ。付き合いたい。
なんて思っているうちに新之助が颯爽と楽屋口から出てくる。
かっちょよさに打ち震える女子どもを一顧だにせず、
彼は祇園の方へ足早に去っていった。全く腹立たしい程にキマる男であるよ。

2003年03月16日

「Run おさる Run!」...チンパンジーの事を真剣に考える

南米のジャングルに住むホエザルの吠え声は、2,3キロ先まで届くそうだ。
小学生の時それに似ていると言われたのが私のサル・ライフの始まりだった。
男子は静かにしてくださーい!とか怒鳴る女子っているでしょう。
あんな感じだったのでホエザルというあだ名を付けられたわけだね。
子供の時はサル呼ばわりされるといたく傷ついたものだが、
最近ではサルっぽいねと言われると嬉しい。むしろ誇らしい。

私は元々動物にはあまり興味がなく、巷を席巻するチワワの潤んだ瞳にすら
ほとんど心動かされない鬼だ。
しかしサルだけは別。特にチンパンジーは見ているだけで涙が出ちゃう。
(厳密に言うとサルはmonkey、チンパンジーはapeの一種。
簡単に区別するとmonkeyは尻尾があり、apeにはない。双方は結構違う生物)
チンパンジー達の、ただ生きている姿を目の当りにするだけで
生きていてくれて有難うって思う。その普通の生きざまに泣けてくる。
この気持ちは一体何だろうな。流れる血が近いからだと踏んでいるんだけど。
DNAレベルで見ると、ヒトとチンパンジーの違いはわずか1.2%だそうだ。
ヒトに一番近い彼らの事をもっと知り、そして自分の涙の理由を知る為に
チンパンについて鋭意勉強している今日この頃である。

京都大学霊長類研究所で行われている“アイ・プロジェクト”は
チンパンジーの心を探る研究であるという。
アイは言葉や数を理解しているチンパンジーで、彼女が2000年に産んだ
男の子・アユムも今やコンピュータを使うこともできるの。
この辺りのお話は松沢哲郎先生の「アイとアユム 母と子の700日」(講談社)
「進化の隣人 ヒトとチンパンジー」(岩波新書)などに詳しいのですが
もうねー私はアユムにぞっこんだ。
ヒトと同じように親にしがみつくその小さな手、その笑顔(笑うんだよ!)、
コンピュータに向かう時の賢者のような顔つき。嗚呼プリティー也。
しかし可愛いって言ってるだけでは能が無いっすよね。
野生のチンパンジーは近年の森林伐採や食肉としての商品化等により
絶滅の危機に瀕している。
“進化の隣人”である彼らの将来を真剣に考え、自分も何かをしたいと思う。
それより人間の将来を考えろよって意見もあるだろうが、なんだかねー。
人と地球の明日の為に。って地球の明日の為を思ったら
いっそのこと人はいないほうが多分いい、とすら思う。
サルもヒトも幸せに暮らせたらいいね、ってアユムが笑ってる。かも。

2003年03月05日

「先生!」...学ぶ動機はいつもヨコシマ

三月に入って袴姿の娘さんをよく見かける。卒業式シーズンなのだなあ。
最後に学校を卒業してもう14、5年経っているのだと改めて思うと
なんて遠いところまできてしまったのだろう…と心もとなくなる私だ。

全体的に、学校という場所は大好きだった。
私はとっても従順で律し易い子供であり、ほとんど何の疑問も抱かずに
逆・尾崎豊な学校生活を送っていた。多分なーんも考えてなかったんだと思う。
勉強さえしていれば誰にも叱られなかったし、そういう意味では楽だった。
そして私は、よく先生を好きになった。
外見に諦め入っていた私はとにかくバカに見られないように、
知的な人と言われたいが為に、知る事に対して貪欲だった。
(その辺の性根が外見云々つー以前にもう可愛くないんだが)
自分より断然モノを知っていて、私を啓蒙してくれる一番身近にいたのが
先生だったのね。

英文学の周作先生(仮名)は忘れられない先生の一人だ。
浪漫派の詩を専門としていた彼は大層ロマンチストで、
いい大人なのになんだか隙があってそこらへんがちょっとあざとかったけど
寂しそうな影も含めてすっかり憧れてしまったバカな学生の私は
とにかく一所懸命勉強したものだ。
先生は色んな話をしてくれた。
3回観たという映画「モーリス」のことから、三島由紀夫のこと、
ラファエルロ前派と運命の女、テートギャラリーのターナーの部屋、
パリのクリスマスの風景、スコットランドのセントアンドリュースの砂浜。
先生の話はいつも色彩に溢れている美しい詩のようで、
授業中の雑談だったけど私はそれらの話を私だけにしてくれているような
錯覚に陥りっぱなしだった。うーん簡単な奴。
だけどその時の話はどれも心に残っており、確実に今の私を作っている
パーツになっているわけで、実のある勉強だったと言っても良いでしょう。

この間ふと、今の私は当時の周作先生と同じ年なんだってことに気がついた。
せ、せんせい…そんなに大人じゃなかったんすね。とちょっと思った。
いやでもこの年で既に助教授だったのだからやっぱし立派だったのかな。
最後の授業の後、先生が私にくれたフリードリッヒの絵は未だ大事に貼っている。